はじめに・・・これは夢木香代表 中川信治が、あるインタビューに答えた会話をそのまま文字にしたものです。
あえて手直しをせずここに紹介することにしました。
夢木香創業時の情熱・事業への思い入れを語る
1987年10月17日ウッドギャラリー夢木香を立ち上げた。
社名はログの会社とは思えない名前にした。 もともとログハウスの建築をメインにやるつもりはなかったから。 木に関することは何でもお任せください!そこには手作り家具、木のクラフト、木のおもちゃがあり、自分自身がこれらにひたり、そして落ち着き、こんな良いものはないと感じていた。 当時は今より、がむしゃらに日本が突っ走っていた時代で、心の豊かさが、ないがしろにされており、儲かれば何でも良い!そんな時代だった。3Kの仕事なんか、やりたくないという時代で・・・でも額に汗することが本当に良くないことなのだろうか、いやそうではないと感じていた。
その頃、私は音楽業界で、随分ハデな世界で働いていた。 自分が動くよりも、人を言葉で制圧するような仕事だった。だから物を作って形にすることができる人が本当に、格好よく見えた。 大工が、あの汚れた格好で使い込んだ釘袋さげている姿が非常にカッコイイな、自分もやりたいなと思った。 うすっぺらな根拠のないセリフがまかり通る音楽業界とちがって、右にあるコンパネを左に動かすには誰かが重たい思いをして運ばねばならない。どんなに言葉がうまくても材料は右から左には動かない!ところが音楽業界はそうではなく、いくら良い仕事をしても「なにかサウンドが冷たい」とか、逆にへたくそな演奏をしても、「なんかあったかくて良い」とかで二重丸になるような業界であるから、具体的に誰かが体を使い、誰かが手に持って物を動かさないと前に進まない仕事は、始めはつらくて抵抗もあったが新鮮でもあった。 言葉ではなく本当にやらなければならない、しかも、たかだか10枚たらずのコンパネを右から左へ移すのがこんなに大変とは・・・。 手にささくれはできるし、でもこういうもんだと結構感動していた。
飯がうまい!と言うのはこれなのかと感じた。それまでは女の子といっしょに、シャレたレストランで食事をする、それが、コンビニで弁当を買う時、まず量が多ければ嬉しく、飯がこんなにうまいのかと感じた。
全てが新鮮だった。これなら一生やれる仕事かなという気がした。しかしそんな考えでやり始めたものの、実際には全く仕事がこない!小さな木製小物ばかり売っていてもラチがあかないし、テーブルひとつを手間ひまかけて作って売ったところでわずかな利益しか出せない、お金を稼ぐってこんな大変なんだ!大変だ!どうしよう!やっていけない!!
その時、もうひとつのロマンであったログハウスで食っていけないだろうかと、思うようになった。
背に腹は返られない事あって、ログハウスの建築をやろうと、そして方向転換をした。音楽業界は泥臭く、売るためにはアーティストの個性を無視し、うそのまかり通る世界だった。私はそのころ人間関係に疲れ、年2回ほど胃カメラを飲み体も随分、痩せ細っていた。ソフトからハード(音楽から大工)へ変更した時、非常に衝撃的な思いをした。トラックを運転するのに荷台が1メートル程高いだけでこんなに世界がちがうのか、非常にくだらないことに感動した。それに、具体的に家が形になっていく喜びは変え難いものがあった、もちろんプロの大工に手伝ってもらってはいるが、自分達の手で家を建てる、しかもそれが少しづつ形になっていくことに、とても感動した。大工の道具の使い方を見て、こんなふうに使うのか、万事が感動の連続で、それなら自分も本格的にプロのログビルダーになろうと思い、まがりなりにも一棟建てられるくらいになった。そんな頃から人が増え今の形になってきた。そんな時、大きな節目をむかえた。
人生を左右する大事件が起こり、会社を辞めようと思うくらい追い詰められた。しかし、今の妻との出会いもあり、やり直しをする決意ができた。それをキッカケに居直ったのが良かったのか、それまで人前でしゃべるのがキライだった私が、自分で営業しなきゃどこからも仕事なんか来るはずはないと、思い再スタートをきった。それが何故か大きな物件がポンポンと取れた。運が良かったのか一生懸命さが伝わったのか、「ガンバッテ良いもの建てます!」みたいなセリフで、何軒も契約をとる事が出来た、そしてカナダへ発注した。ところがその当時スタッフは私を入れても3人、届いたログ部材を誰が建てるのか?という心配をしていたら今いるメンバーがどこからともなく数ヶ月の間に5~6人集まって来た。みんなワンボックス車の中に家財道具から大工道具まで全てを積んでおり、即日仕事に就いた。みんないいメンバーばかりで見事にログハウスが建っていった。あの事件をキッカケに、それまで探してもなかなか見つからなかった良いビルダーが向こうからやって来てくれたことが非常に衝撃的であった。その結果、私が営業をやり、他のスタッフが施工する構図が出来上がってた。そして徐々に拡大していった。
このように順調にきた要因を今、振り返ってみると、ひとつ思うところは自分の営業姿勢にあったらしい、あるお客が500万しかないがログが好きで好きでどうしても建ててほしい、しかし、どこへ行っても予算があわずに相手にされず、その予算では話にならないと言われた。
そんなお客に対し私は500万で、どうすれば建つかを考えた。中古の安いログがないか?トイレは工事用の仮設トイレをムク材で囲って済まそうとか、いろんな可能性を考えて、「こういうふうにすれば建つかもしれない」一生懸命、語っていたらしい。それを聞いていたある人が他のお客の前で、「頼むなら中川にするといいですよ。」と言ってくれたのが原点かもしれない。普通の営業マンなら、この500万の顧客はビジネスとして良くないとか、自分の頭の中でABCランクをつけ、適当にあしらって返してしまう。ところが中川はお客と一緒になってなんとかならないかと悩む。あなたは営業のプロではないとも言われた。でもみんな「中川に頼むネ」と言ってくれた、それが非常に印象に残っている。現在語られる顧客思考というほどのではないが、たとえ予算があわなくても相手の立場になって考える姿勢そこにはある。
そして「最終的には一千万かかりますね」という事に案外なったりして、お客も結果的にそれを了承してくれる場合が案外多かった。あるいは数年したら又戻ってきてくれたりした。そんな営業が良かったのか・・・いいスタッフが順番にやってきて順番に人が増えてきて、「彼らが結婚する」、「家を建てたい」、「子供が生まれる」、このんな話がチラホラ舞い込むようになってきた。このことに正直すごく悩んだ。自分が半分、趣味と情熱だけでスタートしたものが、今は社会的責任が付いてきている重圧を感じた。ありがたいことに社員スタッフは皆まじめでレベルの高い人が揃っている。そんな社員が、会社の名前を書いて25年のローンで借金をして家を建てる、そういうことに対しての責任感を強烈に感じた。
「もう後戻りはできない」、「何があっても個人的な理由でやめる訳にはいかない」、社員を含めその奥さん、子供、その人達を少なからずしょっていることを考えると、 まずは、この人達の生活をキチンとしてあげる必要があり、それまでは趣味的人生で好きな事をして気楽に生きて行ければ良いと思っていたものが、会社として、きちんと右肩上がりのことを考えないと、若い社員の収入を増やすことはできない。自分の趣味嗜好だけに走って、、、、とかは通用しない。とりあえずこの社員の子供が大学を卒業するまで稼げるようにしないと、、、そんな思いでいっぱいだ。理念というか、その事を強烈に感じている。その頃からログハウスのようにブームのある不安定さを持つ物だけでは受注が無くなったら大変なことになる、そんな思いから飲食や本屋を始めた。鳥肌が立つほどの感動を受けるログハウスでも、それだけで動いてはダメだと、その時感じた。 現在オーナーと呼ばれているのは、ウッドギャラリー夢木香(法人でない)時代からの呼び方が今に及んでいる。 従って、今でも自分が社長という気分はまったく無い。一緒にやっていこうみたいな・・・。
今、自分自身は人間関係でもあまり悩んでいないし、正直なところストレスもそんなに感じていない。現在のメンバーは非常に良い人材が揃っている。これは素直な気持ちだ。こんなメンバーが揃ったのだから仕事は絶対にうまく行く。だから中川は社員を信頼している、社員の方も信頼感があって、夢木香が好きだからここにいる。好きでなかったらこんなキツイ会社にはいない。忠誠心あるいは愛社精神を皆が持っていてくれる。会社は常に進化し続けないと衰退してしまう。だが変化は一つ間違えると批判が生まれる。進化しようとする動きは最前線で朝から晩まで働いているスタッフには伝わりにく。そのことで批判めいた動きはあるかもしれない、だが中川が今、何かをやろうとしていることに可能性があると社員は思っていてくれている。そこに期待と不安とラフさ、そんなものを各自が感じているのは確かだ。中川がやろうとしているのだから悪いようにはならないだろう。少しでも良くなるようにやっているんだろう。ついて行ってみるか!皆なそう思っているようだ。自分もそれに答えなけりゃいけない。それにうちの会社のフランクな部分が今の連中に合っているのかもしれない。
変な例えだが、社員に1万円のステーキを食べさせ、自分はラーメンを食べていても満足するタイプだ!
皆なで、がんばって、会社を大きくし、たくさん稼いで良い思いさせてあげたい!!